役行者霊蹟札所会

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本山派祖 増誉

増誉とは

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増誉とは、平安後期(1032-1116)に活躍した天台宗の僧侶で、本山派修験の祖と仰がれる人物です。

長元五年(1032)、権大納言藤原経輔(ふじわらのつねすけ)の子として京都にて誕生。6才のとき園城寺(通称:三井寺)の乗延(じょうえん)の膝下に稚児として入り、行円(ぎょうえん)に従って得度しています。字(あざな)は一乗坊(いちじょうぼう)。

増誉は、出家して以降、顕教や密教、修験道までを併せ学び、特に修験に通じていた、と伝えられています。

延久元年(1069)十二月、増誉は錦織寺の行観(ぎょうかん)より伝法灌頂を受け、密教の阿遮梨(あじゃり)となっています。

ついで承保元年(1074)十二月、朝廷より権少僧都(ごんしょうそうず)に任じられ、白河上皇に側仕えてその健康安穏を祈る護持僧となります。そして、翌年も明けたばかりの承保二年(1075)一月には、「法印大和尚(ほういんだいかしょう)位」に叙せられています。応徳三年(1086)、長年護持僧の任についたことへの報いとして、権大僧都に任じられ、寛治元年(1087)には、あらためて堀川天皇の護持僧となっています。

そして、寛治四年(1090)、白河上皇の熊野山行幸に際し、増誉は先達に任じられ、無事にこの勤めを果たしたことによって、熊野三山の検校(けんぎょう)職というものが初めて設けられ、これに補任されています。この後、増誉は、円珍創建と伝説される常光寺を下賜され、「聖体護持(天皇をお守りする)」の寺として、「聖護院(しょうごいん)」と改名しています。

さて、増誉はこの後も引き続いて朝廷に重用され、そして同八年(1094)には四天王寺の別当(べっとう)職に任じられて、永長元年(1096)には権僧正に昇格。承徳二年(1098)に京都太秦の広隆寺別当職、康和二年(1100)に園城寺長吏(ちょうり)、同四年(1002)に正僧正となって法成寺執印(しゅういん)に補任。とりわけ同五年正月、堀河天皇の妃茨子が急死した時、宮中で祈祷し、一時的に蘇生させたという験力は知られています。

そして、長治二年(1105)二月二十四日、増誉の齢74才の時、ついに天台宗の最高位たる天台座主職に任じられます。が、これは比叡山延暦寺の猛反発にあって、翌日やむなく辞職しています。同年五月、朝廷は増誉に大僧正位を授け、六月には輦車(れんしゃ)をも許しています。輦車とは、貴族の中でもごく一部の者にしか許されない高級な車(手引き車)で、乗りもの厳禁が原則の内裏の中にすら乗り入れることが許された、特別なものです。

僧位僧階の最高位に上り詰めた増誉は、この後も十三大寺の別当職に任じられましたが、永久四年(1116)二月十九日(享年85才)に遷化しました。

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出世栄達の人

増誉が、これほどとんとん拍子に「出世」したのは、彼が行学兼備の高徳だっただけではなく、父が「権大納言」という貴族の中でも相当の権力をもつ人であったことも大きく影響しています。そして、父藤原常輔(ふじわらつねすけ)が何故権大納言に成り得たかと言えば、藤原道長(ふじわらのみちなが)の兄道隆(みちたか)の子であったためである、と言えるでしょう。増誉は、藤原北家道隆流の当代第一等の名門貴族出身だったのです。

また当時、僧侶は律令制の中に組み込まれた一種の官人であり、まして天皇に側仕える僧侶は、並の貴族など足下にも及ばぬほどの権力、財産を保有しえる存在でした。

増誉の生涯を伝える主な伝記には、天皇からいたく寵愛され、朝廷に側仕えた高僧であった、ということが主に伝えられています。実際、増誉は、藤原氏の力を背景に、僧侶としては歴史上稀に見るほど出世栄達を極めた人でした。

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本山派修験の祖

増誉は、現在、本山派修験の祖として崇められています。これは、増誉が白河上皇の熊野行幸で先達を務めた褒美として下賜されたのが聖護院であったことに由来します。

もっとも、天台系の修験の嚆矢は、智証大師円珍(814-891)が那智之滝にて一千日籠山行を行って、熊野から大峯山へと入峯修行を行ったことにまで遡ると伝えられています。

増誉は、栄達に華を咲かせただけの、いわば貴族僧ではなく、円珍の跡を継いで大峯山の入峯修行に励んだ修験僧であったとも伝えられ、それだからこそ、本山派修験の祖と言われています。

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