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「法螺(ほら)」は、密教の儀式で使用される法具の一つで、一種の楽器です。
もともとは、インドで釈尊が霊鷲山で法華経を説かれた時、人を集めるための合図として使われたと序品才一に出ており、仏教の伝来によって日本にもたらされました。
日本で法螺に使われる貝は、その名も「法螺貝」で、巻き貝としては日本最大。ひそかに食用としても珍重されてきましたが、高値で売れると言うことから乱獲され、近年は生息数が激減したと言われています。
法螺は、日本に密教が伝来してより、その儀礼において象徴的に使用されていましたが、やがて修験道においても使用されるようになります。当初は、ただ熊などの獣よけのために使っていたようですが、やがて仏教と同様に修験道の儀式などに使用される法具となりました。さらに法螺は、その音が遠くまで響き渡るということから、武士達が戦の折に合図として用いるようにもなっています。
現在、修験道での法螺の吹き方には、「説法」・「駈相」・「宿入」・「宿出」・「案内」・「問答」・「集合」・「寒行」の八種類(本山派による)があります。これらを吹き分けるのは、なかなかに難しく、相当の練習が必要です。
余談ですが、巷では、大げさなデタラメをいうことを、「法螺を吹く」などと言うことがあります。これは、法螺の音が遠くまで聞こえることから転じて、小さな事を大きく言うことを「ホラ吹き」と言うのです。
「金剛杵(こんごうしょ)」は、密教の法具です。多くの菩薩や明王、天の持物となっています。
元来は、インドで使用された人を殺傷するための武器だったと言われていますが、煩悩を破砕する智慧を象徴する法具として、密教に採り入れられました。
金剛杵には、両端の股の数によって「独鈷杵(とっこしょ)」、「三鈷杵(さんこしょ)」、「五鈷杵(ごこしょ)」、「九鈷杵(くこしょ)」の別があります。もっとも、日本では九鈷杵を用いる密教が正式に伝わることは無かったので使用されることはなく、チベット密教においてのみ使用されています。
金剛杵は、密教の影響によって、修験道においても様々な場面で使用されるようになりました。
役行者が感得したとされる「蔵王権現(ざおうごんげん)」が、右手に掲げもっているのも、この金剛杵で、それはほとんどの場合三鈷杵ですが、中には稀に、五鈷杵を持っている蔵王権現像(如意輪寺蔵)もあります。
それぞれの金剛杵には、密教の特定の教義を象徴するものとして扱われ、たとえば五鈷杵は、大日如来の五つの智慧「五智」または、大日如来をはじめとする「五仏」の象徴であるとされています。修験道は、このような密教の教義を踏襲しているので、金剛杵に関して修験道独自の解釈を施してはいないようです。
さて、金剛杵は智慧の象徴であり、それは真理を見出し得ない、自らの煩悩を破砕するための法具です。しかしまれに、いや、しばしば、五鈷杵などの法具で、病気や怪我などで痛めた身体をさすると病気が治る、怪我が癒える、はてまたは悪霊が退散する、成仏するのだ、などと主張する人があるようです。とすると、そのような人達がまず治すべきは自分の頭、ということになるのでしょうが、金剛杵を振り回す当人がそれに気づくことは、なかなかに難しいことのようです。
「法剣(ほうけん)」は、文殊菩薩や不動明王の持物で、般若の象徴とされるものです。
般若とは、サンスクリット「prajñā(プラジュニャー)」またはパーリ語「paññā(パンニャー)」の音写語で、智慧と訳される言葉です。では、智慧とは何か。これは抽象的な説明となってしまいますが、「真理をつかみ取る精神的働き」あるいは「モノをありのままに見ること」を言います。
この剣に象徴される智慧によって、我々が通常正しいと思っている誤った認識、いわゆる煩悩や煩悩に基づく愚かな行為を裁ち切り、真理に目覚めていこうとの意義付けがなされています。
さて、宝剣には片刃のものと両刃のものがありますが、薪を斬るときなどに使用する実用的なものは片刃で刃が付いており、もっぱら儀礼に使用されるものは両刃で刃が付いていない場合が多いようです。柴灯護摩(さいとうごま)という修験の儀礼の中には、「宝剣作法」というものがあり、この役にあたった修験者は、「天諸童子 永以給仕 刀杖不加 毒不能害 若人悪罵 口即閉塞」という偈文を唱えつつ、虚空を「光」の文字に斬りつけます。
さて、宝剣が般若の象徴であり、般若とは智慧の意であることは上に見たとおりです。しかし、この般若の「モノをありのままに見ること」という意味を、「自分に素直に」「心の命ずるままに」「自然体で行こう」などと、人間性(=理性)を捨て去った動物的感性(=情緒・感情)こそ、まさに智慧なのだとはき違え、「そのままでいいんだよ」「人間だもの」「自分の今のままが仏の姿なのだ!」などといった、なんの解決にもならない安易な、そしてあまりに愚かな現実肯定の言葉を喜んでしまう人が大変多いようです。
おそらく、そのような彼らが手にしているのは、とんでもない「なまくら刀」なのでしょう。切れない刃物は、切れる刃物より危ないと言われていますが、さもありなん、といったところですね。
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